電車余話 車電車に乗って不愉快なことそれはもう、ヘッドフォンのシャカシャカ音とケータイを使う阿呆である。いずれも形を変えた暴力である。許されて良いはずがない。法律を変えて、この二つの行為を電車内で犯した場合には、後ろからハリセン(またはピョコタンと音の出る空気トンカチ)で殴って良いことに出来ぬものか。 さて、新年早々(1月5日)野暮用があって早朝の都心に出た。正月明けだから、地下鉄は比較的空いている。そうしたら、隣の席にケバイ中年の女性が座った。どうやら女社長のようだ。男性を従え、目の前に立たせている。 まぁ、それ自体は何と云うこともないが、その女社長がケータイを取り出して喋り始めたのには驚いた。電話に出た部下にあれこれと年始のことを指示している。余程、注意してやろうかと睨み付けてやったら、立っている部下の男性がすまなさそうな顔をしてこちらに眼を向けた。すまじきものは宮仕えだが、この社長では立たされている男性も気の毒である。 人は尊敬に値する人に従う。したがって、上に立つ人間は率先垂範しなければならない。下の者はしっかりと見ている。垂範しない上司には、付いていかない。この女社長がいくら頑張ったとしても、部下の士気は皆なくなる。社長の見ていないところでは、著しく生産性が落ちているはずだ。 そもそもおいらは、マナーを守らない奴が嫌いである。この女社長の会社は早晩潰れるだろう。誰も気の毒には思わない。 通勤電車余話(その1) 通勤電車のラッシュ時の混み具合は酷い。 そのため、朝はほとんど座れる各駅停車にしている。それでも稀に座れないことがあり、その場合は止む無く特急または急行に乗り換える。同じ立ったまま会社に行くのであれば、時間が短いほうが良いからだ。 しかし、特急は混むのである。 しかも、半端な混み方ではない。健常者でも耐えられない。ましてやお年寄りには地獄の仕打ちである。 おいらの場合は東横線である。特急だと渋谷と横浜を25分で結ぶ。これが当然混む。しかし、お年寄りに特急が必要なのだろうか。 天下の暴論であるが、お年寄りは各駅停車の方が良いのではないか。あくせくする必要がないのなら、ゆっくりでもゆったりとする方がよいのではないか。 おいらは、絶対に各駅派である。 さて、横浜から都心に通うはめになっている。ドアツードアで約90分である。 畢竟座れるか座れないかが大問題になってくる。上記のとおり、往路は各駅を使用するので座れることが多い。 問題は帰路である。 コツは女性である。六本木で降りる女性が多いからである。この「アタリ」をつけるのがポイントであるが、これがはずれることが多い。 そういう素振りをする女性がいるからである。あたかも、次の駅で降りますよという顔つきや素振りで座っている。おもむろにそれを狙って前に立つ。しかし、これが見事にはずれるのだ。これは悔しい。 バカヤロー、六本木で降りるような格好してんじゃない、と思いながら、黙ってそのまま平然と立ち続けるのである。 通勤電車余話(その2) 昨日に引き続き、電車のお話し。サラリーマンは、毎日電車に乗るのである。 電車に乗って始末に終えないのは、隣の席の人間が居眠りをしてこちらに寄りかかってくることである。全く始末に終えない。これがうら若き乙女ならあらま欲しき話しではあるが、ほとんどがむくつけき中年男である。それが、帰路の場合だと、大概酔っ払いである。鼻ちょうちんのおじさんがこちら側にしな垂れかかってくるのである。 度突きまわす訳にもいかず、さりとて、押し返すのも大人気ない。気持ち良く船を漕いでいるので、こちらによりかかったときに席を立つという高等芸もあるのだが、洒落にはならない。 こういうおじさんに限って、額が禿げ上がっている裏寂しいおじさんである。まあ、許してやるしかない。 ところで、時々、「お主、出来るな」という人物に出くわすこともある。 先日も席に座りながらずっと譜面を見ているしょぼくれたおじさんがいた。しかし、眺めているのは正真正銘のクラッシクの楽譜である。顔立ちはあの堤清二によく似ている。開襟シャツを着ている。 ずっと、譜面のおたまじゃくしを眺めている。思わず「お主、出来るな」と思ってしまった。しかし、何者ぞ。 こういう人物がいるから、電車に乗るのも面白いのである。 電車余話再び(その1) また、やってしまった。 気が付いたら、様子が違うのである。がらんとしている。誰も居ない。乗り過ごしたのだ。 「横浜元町・中華街」終点である。時間は午前零時を回っている。電車に乗ったまま、寝過ごして終点まで来たのである。 つい先日も久し振りにではあるが、また、やってしまったのである。 分析をすると、酔っ払っているのは自覚しているのだが、さりとて、前後不覚という訳でもない。しかし、こういう場合、気持ち良く眠ってしまっているのである。 で、気付くと終点という次第である。時計を見る。電車の折り返し便の最終にはまだ間に合う。ホッとする。間に合わなければ、タクシーで帰るしかない。そうなると、痛い。思わぬ出費である。 何時も思うのだが、それにしても、酔っ払いの帰巣本能というのは凄いものだ。必ず我が家に帰るのである。この帰巣メカニズムは、科学的にも証明されているらしい。脳の記憶メカニズムは、自宅に帰るプログラムを「忘れない脳」の部分に記憶させているようだ。しかも、何時も持っているかばんを忘れることも決してない。 ただし、傘など持ちなれない物は駄目だ。忘れてしまう。この日も傘はどこに置いたか全く分からなくなってしまった。素面(しらふ)でも忘れる性質なので、ましてや酔っ払っているのだから、失くすのは目に見えている。 でも、家に帰れるだけでも良いと思わねば。 それにしても、酔っ払いは偉いと思う。 電車余話再び(その2) 一日の内、往復の通勤に約3時間かけている。仕事で外に出ても、電車に乗ることが多い。畢竟、電車の中で意外な経験をすることになる。 浜松町で仕事を終えたときである。山手線に乗車、空席があったので座ると、白檀(びゃくだん)の香りがするではないか。 上品な和服のお年を召された女性が隣に座っていることも気付いた。冷房が効いてはいるが、暑い車内である。扇子を上品に仰ぎながら、風を送っている。 むむ、お主出来るな、という感じである。年のころなら60代だろう。しかし、華がある。元芸者の女将だろうか。情緒がある。日本人ならかくありたと願うようなおしとやかな女性である。 五反田駅で下車。しばし、見とれるおいらであった。 そうと思えば、こちらは奇妙な体験である。 年のころなら30代後半、妙齢の女性である。スーツを着ている。日比谷線、霞ヶ関で乗車、美人系である。ハリウッド映画に出てくる秘書のようである。 ところが、その美系が突然、両手で吊り革にぶら下がり始めた。次に、パンプスを両方とも脱いで、最後は、その上に裸足で乗ったから、おいらは目を剥いた。 そのままの格好で電車に乗っていたが、六本木に到着したらあたふたとパンプスを履きなおして下車して去って行った。 何だったんだろう。あの女性は。 電車余話三度(みたび)(その1) 過日、完璧な酔っ払いが東横線に乗車していた。 終電に近い電車である。ほぼ満員。しかし、こういう手合い=完璧な酔っ払いがいるから、電車に乗るのは楽しいのである。 一分刈りである。体格は良いというか、少し「小太り」気味である。ノー・ネクタイで、カバンはリュック。両腕を挙げて、電車の出入り口ドアの窓側に顔を向けながら、体をへばりつけている。年齢は40歳プラスマイナス5歳と見た。 独り言を喋りながら、ケツを振っている。すんません、ケツが上品でないのでおケツにする。 酔っ払いの見本のようである。 独り言を聞いてみると、誰かの悪口を云っている。「テメー」とかなんとか、一人で喋っている。アブナイのである。 しかし、周りの乗客は完全に無視している。見事なものである。おいらだけ、距離を置いて観察をし続けた。 このおじさん、きっちりと帰巣本能はありそうである。ただ一人「くだを巻いている」だけで、実際は悪人でもなさそうである。家に帰れば、良いお父さんかも知れない。 天下は太平である。 電車余話三度(みたび)(その2) 電車に乗っていたら、目の前に高齢の女性が乗車してきた。向かいに座ったので、失礼だとは思いながら、観察することにした。 相当なお年である。80歳に近いような気もする。しかし、矍鑠(かくしゃく)としておられ、存在感は充分である。「まだまだあたしの時代よ」、そんな言葉が聞こえそうな老婆である。 それで、思い出したのが、ニューヨーク滞在時に見た老人たちである。 明らかに90歳以上と思える老婆がヨボヨボと、しかし、毅然としてマンハッタンを歩いている。白人が年を取ると、衰えが早い。ディズニーに出てくる魔法使いのような顔である。化粧をしているので、顔が異様に白い。口紅はもちろん真紅である。手足が細く、ゆっくりとしか歩かない。しかし、道の真ん中を堂々と歩いている。 付き添いがいないので、どう見ても一人暮らしである。 でも、この女性が強そうなのである。ニューヨークの住人だというプライドを持っている気がするのである。 思わず、恐れ入りましたと唸ってしまったおいらなのである。 ニューヨークの光景のひとコマの記憶であるが、日本もこれからそうなるのか、ならないのか。 電車余話三度(みたび)(その3) 電車が急停車することがある。 特にホームに入ってからである。これは、電車の運転が下手なのである。電車をスムーズに停車位置で止まらすことができないからである。 それで思い出したのが、飛行機の着陸時である。ジェット機が着陸するときに、そのパイロットの操縦の上手い、下手かがはっきりと分かるのである。 飛行機の操縦は、今や全自動である。 上空を飛んでいるときはコンピュータまかせなのである。機械が勝手に航空機を運転してくれるのである。極端な話し、おいらがパイロットであっても問題はない。 しかし、着陸は違う。その巧拙がはっきりと分かるのである。 海外では、このことを皆よく知っていて、着陸が上手くいくと、拍手喝采となるのである。老若男女を問わず、全員が拍手するのである。もちろん、おいらも拍手である。 ラテンだけではない、皆、誉めどころを知っている(この項終わり)。 電車内での化粧女 電車内で女性が化粧をする風景に良く出くわす。 便宜上、このような女のことを化粧女と呼ぶ(写真は関係ありません)。 はっきり言って化粧女は迷惑である。それについて、最近可笑しかったのは、桑原聡氏のエセーだ。「しばらくして妙な想念にとらわれた。会田雄次の「アーロン収容所」に、イギリス人女性兵士が日本人捕虜の前で平気で裸になるという記述があった。彼女たちは日本人など人間と思っておらず、ペットの前で裸になるのと同じ感覚だというのだ」(産経新聞7月8日「妙」) なるほど、電車内で化粧する女性は、周りの人間を人間と思っていないのである。猿か何かの動物だと思っているのかも知れない。そういう理屈なら、簡単である。こちらもその化粧女を人間だとは思わずに、檻から放たれたメス猿と思えば良いのである。 しかし、このような風景は何も今更始まったことではないらしい。戦前にも同様のことがあったらしい。驚くことに、当時のマスコミも現代同様に、電車内でのマナーが守られていないとその風潮を嘆いている。昭和初期に田舎から都会に大量に働く女性が雪崩れ込んだのが原因であったような内容の記事である(申し訳ないが、昔読んだ記憶なので、出典を忘れた。横田順彌のエセーであったような気もするが)。 してみると、時代を問わず、今も昔もメス猿はいるという訳だ。何も現代の悪しき風潮だと、ことさら嘆く必要もなさそうである。 電車内の化粧女(その2) 電車内の化粧女を少し前にこき下ろした。 要旨は、「電車内で化粧する女性は、周りの人間を人間と思っていないのである。サルか何かの動物だと思っているのだ。そういう理屈なら、こちらもその化粧女を人間だとは思わずに、サル女と思えば良い」のである。 しかし、よりによって、本日は日比谷線で中目黒始発から隣に座った女性(推定25歳)が化粧を始めた。本格的である。大きな鏡を出してきた。付け睫毛までし始めた。これには腰を抜かした。 向かいに座っていた、お年を召した女性が急に不機嫌になるのが分かった。 前回のおいらの説が生ぬるいことに気付かされた。こりゃ、サル女と思えば良いだけでは済まないぞ。 これはですね、もう、法律で規制するしかありません。 刑法犯が妥当と考えるが、逸る心を押さえることにする。ここは東京都内の地下鉄である。石原都知事にお願いする。「迷惑防止条例」によって、電車内での化粧を取り締まってもらうしか方法はない。 え~い、サル女のお陰で今日一日が不愉快だ~。 お盆に乗る電車 お盆休みも休まずに、出社した。 どれだけ電車が空いているかが楽しみである。 何時も乗車する駅にたどり着いた。ホームで待っている人の数がまばらである。毎日、同じ時間帯の電車に乗り合わせる中年のサラリーマン風のおやじが本日はいない。今日からお盆休みなのだろう。 電車が到着した。おっ、車内で立っている人がほとんどいないぞ。下車する人もほとんどいない。珍しく空席が目立つ。素直に嬉しい。 都心まで約1時間10分。楽勝の通勤である。ゆったりとした気分で、会社に着いた。 夢のような通勤電車であるが、人間的な通勤をするには、本来はかくあらねばならないはずだろう。 こういう楽しみがあるからこそ、出社するのである。 追記すれば、帰路も楽勝であった。会社勤めのささやかな楽しみである オカヤマ尽くし 圧巻である。 地下鉄丸の内線に乗車したら、岡山県の広告が電車ジャックをしていた。電車ジャックとは、車内の広告を中吊りはもとより、全ての広告を岡山県のPRで占めることである。写真のとおりである。 最初は何がなんだかわけが分からなかったが、岡山県の公聴広報課が主催して、岡山県民の思いを岡山県在住の人やゆかりの人に書いてもらったという。 オカヤマもやるのぅ。石井正弘岡山県知事の顔を思い出した。氏とは、昔、仕事でご一緒させてもらったことがあるので、人柄を知らないわけではない。あの人なら、こういう芸当はお茶の子である。 地下鉄の最後部の車両に乗車していたので、乗っている箱だけのジャックかと思い、前方の箱に移動した。 次の車両も岡山尽くしである。その前の車両もそうであった。お盆は電車が空いているので、すいすいと移動が出来る。どうやら、電車の全車両が岡山の広告である。 ぼっけぇ(岡山弁。「大変」とか「凄い」の意味。名古屋弁では「どえりゃあ~」か?)、驚いた。 そう思ったら、岡山出身のTくんと同時に、岩井志麻子を思い出した。吉行淳之介や柴田練三郎も思い出した。ついでに、同じく高校時代の友人であったNくんまで思い出すことになった。おいらと同じ作家志望の彼は、今ごろどこでどうしているんだろう。 オカヤマ、恐るべし、である。 不良中年ファッション 電車に乗っていると、稀に、「む、おぬし、できるな」という親父に出くわす。 先日も、たわいもないものだが、 (1)ヒゲ (2)サングラス (3)野球帽を反対被り (4)Tシャツの上に半そでシャツをはおる (5)デニムのジーンズ (6)スニーカー (7)短髪(逆に長髪を後ろでとじる輩もいる) というものであろうか、ヤンチャ坊主がそのまま親父になったような不良中年が颯爽と乗り込んできた。 この手のいかした親父は、決して、座らない。 席が空いていても、わざと立っている。遠くを眺めている振りをしている。 世の中がこういう親父ばかりだと困ってしまうのだが、たまにはこういう手合いがいても微笑ましい。 電車雑感 昨日に続き、再び電車の中での話題。 電車の中は第2の書斎である。通勤で片道約1時間は電車に乗っている。畢竟、電車は読書や思索の場所となる。しかし、ああいう場所にもかかわらず、精神の統一がし易い。 これは、パチンコをしている最中が精神統一できるのと同じ理屈かも知れない。もっとも、パチンコはもうだいぶ前に止めたが。 しかし、何と云っても朝の出勤時は貴重な睡眠の場所でもある。 早朝は、睡魔に襲われることが多い。座席で船をこいでいる連中をよく目にする。先日も隣のオッサンが規則正しく体をこちらにもたらせてきた。 座りながら眠る基本的な方法は、体を前か後方に傾斜させることである。そうすれば隣に迷惑がかからない。隣にもたれかかるのは、ご法度である。 しかし、掟破りはいる。このことは、先日のブログでも書いた。若いオナゴなら許せるが、オッサンは勘弁して欲しいのよ。 ところが、ある日気付いたら、自分が電車の中で船をこいでいるではないか。 「まさか、自分が」と思ったが、眠くなると、気持ち好くこれをやっちゃうんだよなぁ~。 反省。 9月下旬と雖も 暦の上では、立派な秋である。何時までもクールビスではない。秋らしい格好をしなければダンディではない。 勤め人を兼ねているので、今週金曜日も通勤のため、出社時に上着を羽織ることにした。しかし、この時期にもかかわらず、太平洋高気圧にすっぽりと日本は覆われている。自宅を出ると青空に太陽が輝き、直射日光が照りつける。9月下旬と雖も真夏日である。 何が秋らしい格好だ。これではまるで、シンガポールかバンコクではないか。 そう思って、電車に乗ると、電車が停車しているときはドアが全開である。おいらは、座って会社に行きたいので、各駅停車に乗車することが多い。 鈍行電車は急行電車や特急電車の待ち合わせをするので、間抜けなほどよく駅に停車している。しかも待ち合わせのときなどは、電車はドアを長時間にわたり開けっぱなしだ。畢竟、冷気は皆外に逃げている。それにもかかわらず、電車は冷房をし続けている。冷房のために車外に熱気を吐き出しながら。 何とかならないものか。パリの地下鉄のように、必要のないときはドアを閉めて、手動でドアを開けるようにしたらどうか。 そう考えながら、暑い電車の中で上着を持て余している。 電車の中で眠るのは悪いか 「ニューヨークの地下鉄で居眠りは条例違反」との話しを何かの記事で読んだのを思い出した。 丸の内線での先日の出来事である。向かいのうら若き女性が大股を拡げそうながらも拡げないで眠っている。本格的に船を漕いでいる。 たしかにこれがニューヨークの地下鉄だと、危ないと思う。カバンは取られちゃうだろうなぁ。向こうの犯罪は大胆だから、あっという間にひったくられちゃうだろうなぁ。ましてや、網棚に物を置くなんて「置き引き」してくださいというようなもんだしなぁ。 考えてみれば、そもそもニューヨークの地下鉄には、網棚など設置されていない。犯罪を誘発させるようなものは排除しているのだ。 しかし、ここは日本である。 しかも、早朝の出勤である。脳が覚醒していないのである。電車の中で気持ち良く眠るというのは、サラリーマンにとってのささやかではあるが、大切な楽しみである。 そうであれば、重いカバンを棚に置いて、思う存分電車の中で眠りたいではないか。日本はまだそれができる国だと思いたい。いや、サラリーマンがいる限り、日本はずっとそうあって欲しい。 向かいのおねえちゃん、ずっと、居眠りしていてもいいのだよん。 銀座で思うこと おいらの敬愛する吉行淳之介が慧眼であるのは、「夜の酒場ばかり見ていると、世の中の女性が皆美人だと錯覚してしまう。そうではないことは、昼間、バスに乗ってみればすぐに分かることである」という趣旨のことをエセーで書いていたからである。 昼間の乗り物が電車ではなく、当時はバス(都バスだろう)というところも風情があって良い。 ま、バスでなくて、電車や地下鉄でもよいのだが、首都圏で実際に電車に乗ってみると、吉行先生のご指摘のとおり、この世に美人などいない、いや、美人は電車やバスなどに乗らないということを思い知らされるのである。 ところが、先日の夕方、少し遅い時間、そう、午後8時ごろ、地下鉄丸の内線の銀座駅で目の覚めるような美人に出くわした。 土地柄、銀座は別格なのだろう。 和服を着こなした美形が楚々とした風情で銀座駅を降りていった。年のころなら三十路後半か。彼女の後にほんのりとした白粉(おしろい)の香り。思わず「小股の切れ上がる」という日本語が頭をよぎった。 その場面に出くわしただけで、その日は得をした気分になったおいらである。 電車余話外伝 某月某日早朝、胸の谷間を見せて座っている女性の前に立つことになった。地下鉄日比谷線中目黒駅の満員電車の中のことである。 こういう日も、一日、得をした気分になる。 これで思い出すのは、前職時代のことである。ニューヨークではこういうキャリアウーマンにお目にかかることが少なからずあった。スーツを着ていても、しっかりと胸の谷間を露出しているのである。 グラマーで仕事に自信を持っているタイプに多かったように思う。 会議室の席で向かい合わせに座ったおいらは、見るつもりがないのだが(ウソつけ)、タンクトップのずれ方によっては、見える範囲が一気に大きくなり、乳房を出しているようにも思えてしまうし、半ケツ状態とほとんど変わらなくなるという、目のやり場に困るというか、目の保養状態になるというか、仕事どころではなくなってしまうのである。 さて、この女性は外資系企業の多い神谷町で下車していったが、しっかりとキャリアウーマン風で、日本人もとうとう外人同様、仕事と容姿に自信を持つようになったかと感慨無量であった。大和撫子には考えられないことであるが、それはそれで良いことである。 ところで、ボディスナッチャーというB級洋画(宇宙からカブト蟹もどきが飛来し、人間に寄生するというホラーサスペンス)があったが、主人公の女性が「カブト蟹もどきにコントロールされた男性は、女性を無機質にしか見ない」と発言するシーンがあり、大笑いしてしまった。 かの国では、女性が胸の谷間を見せて反応しない男などいないと思っているのだ。 こういうのを逆セクハラと呼ぶのである。 女性、若者の「クルマ離れ」 国内新車販売数の推移は、年間800万台(軽自動車を含む)に迫った平成2年をトップになだらかな減少をしている(日本自動車販売協会連合会)。 昨年(平成19年)は、500万台半ば(軽自動車を除くと約340万台)の新車販売数であった。4年連続しての減少である。 国内自動車販売が振るわない理由は、 1.消費の多様化 2.少子高齢化 3.ガソリン高などが挙げられているが、最近では 4.女性、若者の「クルマ離れ」に原因があるとされている。 え、女性、若者の「クルマ離れ」? そうなのか、時代は確実に変わっているのだ。 おいらは学生時代、無意識の内に将来は車を買うと決めていたのだが、今の若者は車よりもパソコンやゲームなどに興味があるらしい。 女性と若者の巨人離れが「プロ野球離れ」を加速したように、この兆候は見逃すとまずい。 いや、それは不良中年がそう思うだけで、時代は若者が創るのである。そうだとすると、この兆候によって日本の将来の一端が垣間見えてくるような気がするのだが、如何か。 電車内での抱擁 日比谷線、某日、夜の11時過ぎである。 電車内で一組のカップルが抱擁してキスをしている。女性はキャリアガール風で30代、男性は40代後半のやり手サラリーマン風。 おいらは、パリの地下鉄で見た同様の抱擁シーンを思い出していた。 しかし、断じてパリで目撃した風景とは違う。 余計なお世話かも知れないが、何故、違うと思ったのだろう。それは、パリの抱擁シーンが絵になっていたからだ。若い男女のキスは一こまになる。 ところが、ここは六本木を過ぎて広尾。日比谷線で中年の男女の抱擁。女性は美形であるが、酔っている男性の面影に若さの匂いはない。これが似合わない。 読者諸兄は思うに違いない。お前のやっかみではないかと。しかし、断じて違うと思うのだ。日本人が公衆の面前で抱擁するには、まだ時間が必要である。 しかし、待てよ。 こういう光景が電車の中で見られるというのは、日本も成熟したというべきなのか。 通勤電車と定期 外で仕事をしていて、思わぬ場所でお開きになることがある。 と云っても、その場所が例えば飯田橋であったり、神保町であったりしての話しで、単に会社に戻らないで、通勤経路以外の場所から自宅への直帰(立ち帰り)のことである。 こういう場合、自宅に帰ろうとして、最寄りの駅から自宅までの最短ルートを取るか、それとも定期で通っている駅に近いところまで戻り、帰りの電車賃を少しでも節約しようとするのか。 誰しも一度は考えたことがあると思う。 おいらもこの間まではそうであったが、現在勤務している先は、交通費実費支給であるので、最短ルートで帰っても問題がない。 そこで気付いたことを一つ。 最短ルートで帰ると、いわゆる幹線でない路線を使ってもよい。おいらの場合、東急東横線を通勤経路にしているのだが、最短ルートだと例えば東急目黒線を使うことになる。 そうすると、気持ちだけかも知れないが、電車がちょっぴり空いているような気がするのである。皆、わずかでも節約して通勤経路に戻っているからなのだろうか。そうであれば、車で裏道を走るようなものである。 このように「電車にも裏道がある」という仮説を立ててみたのだが、これって間違っているかなぁ。 ロンドンの地下鉄が約千円 ロンドンの地下鉄料金が4ポンドだという。 最近の1ポンドは約240円だから、日本円では地下鉄料金が約千円ということになる。 日本の地下鉄(営団)は初乗りが160円、タクシー(都内)でも660円だから法外な料金である。 しかし、だからと云って、英国経済が破綻している訳ではない。 ブレア元労働党政権は、サッチャー政権からの小さな政府を維持することに成功し、ユーロ圏を上回る成長と失業率の大幅低下を実現させたのである。しかも、財政規律を制度的に確立した。先進国の中で、トップクラスの財政健全化を実現させたと云っても過言ではない。 経済運営では、英国の評価のされ方は高いのである。 おいらは、これがアングロサクソン流のやり方ではないか、と考えるのである。地下鉄の値段が少々高くても、国の財政が健全なのが良いのか、それとも、どこの国とは云わないが、地下鉄料金が少々安くても、国の財政がガタガタで良いのか、ということなのである。 地下鉄料金で考えさせられる、実は重要な問題なのかも知れない。 久米仙人 電車に乗っていると様々な人に出会うのが楽しみである。 先日も地下鉄に乗車していたら、うら若き女性がおいらの目の前に座った。グラマーである。グラマーについて解説すると、必要な部分のみ発達している女性のことをグラマーというのである。ニューヨークの地下鉄で出会ったグラマーは、黒人女性やヒスパニック系が多かったことを思い出す。 さて、そのうら若き女性のワンピースの裾が短いのである。畢竟、シートにもたれると膝上20センチまでが自動的に丸見えになるのである。目の毒である(嘘つけ)。 物理的に太腿が露出されることになる。おいらは見たくないのだが(正直に云いなさい)、自然に視野に入るのである。 しかも、この肉感的な女性、何を勘違いしたのか、脚まで組むのである。最早、犯罪である(歓迎である)。大変だ、太腿の下部まで露わになる。 で、おいらは何を想い出したかというと、中学・高校時代にお世話になった国語担当の三島先生である。 三島先生は好きだったなぁ。味があったなぁ。 おいら達学生を一人前の人間として見てくれたのである。その三島先生があるとき、久米仙人のことを教えてくれたのだ。 久米仙人は修行を積んで、空中を自由自在に飛ぶことが出来るようになった。この仙人、空を飛んでいたら、地上で若い女性が着物を捲りあげて洗濯をしているのを見付ける。久米仙人、その光景が視野に入った途端、あっという間に地上に墜落する。太腿に見とれたのである。 おいらはこのとき、三島先生が含み笑いをされながらこの話しをされているのを見逃さなかった。いや、久米仙人の気持ちよりも、三島先生の気持ちが理解出来たので、何とも云えない共感を覚えたのである。おいらもませていたのぅ。 世の女性達よ、久米仙人を惑わさないでたも。 電車余話…面白い話し 電車に乗っていると面白い話しが転がっている。 先日の通勤途上のことである。隣に座った女性同士が井戸端会議を始めた。聞くとはなしに、うとうとしていたら、次のような話題となった。 「あの人も大変だったのよぅ。子供が生まれてすぐに、旦那が落語家になると云い出すんだから」 「まあ」 「それで、本当に落語家に弟子入りするのよ」 「ウソ~。大丈夫なの」 「何でも師匠にお前は素質があると褒められたらしいの」 「それで、落語家になっちゃった?」 「ところが、直ぐに破門させられちゃうのよ」 「どうして?」 「高座に穴を開けたのよ。しかも二度も」 「まあ」 「いい加減なのよ。時間にもルーズだし」 「へぇ~、その旦那さん、今はどうしておられるの?」 「それが今ではツア・コンやってて、水を得た魚みたいらしいわ」 「……」 面白い話しではあるが、同時に考えさせられる話しでもある。まことに、事実は小説より奇なり。 恐怖のエスカレーター 過日、公共放送の教育番組を見ていたら(5月17日放送「ETV」)、「危険学」を取り上げていた。 興味を引いたので見ていたら、「エスカレーターで手擦りを持たないことが危険である」ということを取り上げていた。 え、えっ~? だって、エスカレーターの手擦りはトイレの床より汚いのだよ。大腸菌の塊りだと聞いてるんだけど。 だから、手擦りを持つのはどうしたものかと、おいらは率先してエスカレーターの手擦りを持たないようにしていたのだ。 しかし、エスカレーターは危ないのである。 記憶に新しいところでは、都内某所でエスカレーターの逆走事件が発生した。この事件では死者が出なかったが、極めて危険な状態であったという。 確かにエレベーターの上から人が降ってきたら、そのままドミノ倒しになるのは目に見えている。 少なくとも、手擦りを持っていない人間は振り飛ばされる。しかし、手擦りを持っていれば、その危険性は少しでも緩和されるのである。 したがって、現在、JR東京駅では手擦りを抗菌にし、「手擦りを持とう」という運動を行っている。 テレビを見た後、おいらは「手擦り持ち派」に転向したのだが、関東のエスカレーターでは立っている人が左側に寄るので、手擦りは左手で持たなければならない。右効きには不便である。 関西が右寄りになるのは、手擦りを持つためだと聞いたことがあるので、こりゃ、関西方式に分がある。 それはさておき、このことに気付いて以来、エスカレーターで手擦りを持っている人がどれ位いるのかと気を付けて見ていると、5割弱である。年寄りに持つ人が多いかとも思ったが、そうでもない。男女にバラツキもない。 携帯を操作しながら、また、本を読みながらのエスカレーター乗車は自殺行為だと云われても仕方がない。危険には無頓着な日本人の何と多いことよ。 「世の中は 地獄の上の 花見かな」 電車余話再び 軽い話題。 おいらは都心に出るのに東急東横線を使っている。で、気に掛かっているのが、「通勤特急」の存在である。 あの「通勤」というのはどういう意味なんだろう。 別に通勤している人しか乗ってはいけないという訳ではないだろうし、敢えて「通勤」とする理由が良く分からない。 東横線の場合、「特急」と「通勤特急」の差は日吉駅で電車が停まるか停まらないかの差だけである。 通勤、つまり、平日や通勤時間帯以外に日吉駅で乗降する人が極端に少ないのだろうか? 日吉は目黒線や市営地下鉄の乗り換え駅にもなっているので、停まって欲しいという人も多いはずだ。同じ特急であれば、日吉で「停めるのか停めないのか」決めて貰った方が分かりやすいと思うのだが…。 もう1つ。 車内アナウンスで「元住吉で通勤特急の通過待ちをします」と云われる。 これだけで意味の分かる人は、余程、電車の通である。 おいらなどは、最初云っている意味が良く分からなかった。「それがどうした?」である。 正解は、「元住吉の手前の駅の日吉で特急の待ち合わせをする」ということなのだ。 だったら、最初からそう云いなさい。特急に乗りたい人が知りたいのは、どの駅で降りれば良いかである。 「日吉で通勤特急の待ち合わせをします」で良いではないか。 どうしてああいう云い方をわざとするのだろうか? 最後に、先日の通勤時間帯の地下鉄内での出来事を一つ。 Tシャツを着た二十歳代の男性が突然電車の中でTシャツを脱ぎ、クリーニングの包装をしたワイシャツの袋を破って、徐(おもむろ)にワイシャツに着替え始めたのである。 これにはビックリしたなぁ。 車内で化粧をする女性はうっとうしいが、ワイシャツに着替えるというのは大胆不敵である。 マナーとかエチケットという言葉は、最早この国にはないのだろうか。 通勤時間のシルバーシート 電車で困る話し。 先日、敬愛する人物と話しをしていたら、思わず膝を叩く話しとなった。 通勤時間の電車の中はごった返している。足の踏み場もない満員電車である。 同時に電車の中は貴重な休息の時間でもある。朝の通勤時のうたた寝は得も言われぬ至福の時でもある。 だから、始発の通勤電車では、座席に座るために時間をかけてでも並ぶのである。 列の少し後ろに並んだ場合は、残された席がシルバーシートであっても強引にその席に座る場合がある。 しかし、そういうときに限って、空いている席がないかとお年を召された方(特にオバサン)が目の前に立たれるのである。 「おいおい、始発なのだから、もう一本電車を待ってよ~」と、云いたいのだが、こりゃ、辛い。立つと、会社まで始発から約50分もかかるのだよ。立ったままは勘弁してよ~。 こういう場合、針のムシロとなってそのまま座り続けるか、それとも寝たふりをし続けるか。 おいらは、妊婦が目の前に現れると無条件で席を立つことにしているのだが、オバサンの要素だけだと戸惑ってしまうのだなぁ。 もう一本、電車を待ってよ~。並べば座れるんだょ~。 しかし、これって、難しいよなぁ。困るよなぁ。 もう自転車には乗れない 道路交通法が改正になったのか、条例が変わったのかは知らないが、とうとう自転車が歩道を走れなくなった。 歩道の幅が3メートル以上なければ、歩道での走行が禁止されたというのである。 日本の歩道で3メートル以上のものがそう沢山あるとは思えない。したがって、自転車は事実上、車道を走らなければならなくなったと思わなければならない。 警視庁が音頭を取ったのか、それとも何かの力が働いたのか、とにかく云えることは一つ。 自転車が車に巻き込まれて死亡する事故が激増する。 それほど車道での自転車は危ない。 バイクでさえ危ないのに(ただし、バイクは車の流れに乗るスピードが出せるのでまだマシ。自転車にそれを期待するのは不可能)、自転車が車道を走ると大型車の後輪に巻き込まれる可能性が高い。 おいらの敬愛する後輩に、憎めない男がいる。 小さな頃から自転車の魅力に取りつかれた自転車野郎だ。彼の話しで驚いたのは、東京から京都まで平気で自転車で帰るのだが、学生時代、そうして国道1号線を走っていたところ、ダンプの後輪に巻き込まれて顔を縫ったことがあるという。日本は道路が発達していても貧しい国である。国道であっても自転車道が設置されていないのである。 さて、昨日おいらは車を運転して横浜市内を走ったが、自転車が車道を走っているとヒヤヒヤするのである。ハンドルを大きく切って自転車を避けたのだが、そうするドライバーばかりではないだろうと思わざるを得ない。 だから、おいらのような自転車大好き人間であっても、このようなことではもう自転車には乗れないと思うのである。 この問題の本質は、「歩道の歩行者を自転車が危険にさらすので自転車を閉めだす」のではなく、「自転車道を整備していないのに、自転車を歩道から閉めだす」ことにある。 パトロ-ルをしているお巡りさんもこれからは車道を走ることになる。お巡りさんが事故に巻き込まれて死亡した場合、それを殉職と云うのだろうが、そのような殉職は道路行政の貧困による殉職ではないのかと思う。 一体、このような愚作を誰が決めたのかのかのぅ(やはり官僚か?)。誰も文句を云わないのが不思議で仕方がないが、おいらはもう自転車に乗るは怖いので止めるしかない。 貧困の日本。 本日から来週月曜日までお休み 本日から来週月曜日まではゴールデンウイーク中につき、お休みです。 写真は、先日、横浜市内を走っていた謎の車両。 原付ナンバーだったので、オリジナルの車両だと思われます。 男だねぇ~。下手な解説は不要。 それでは、皆様よろしゅうに。 平成24年5月3日(木) 謎の不良中年 柚木惇 記す 本日と明日はお休み 本日と明日は休日につき、お休みです。 写真は、街で見かけたビンテージものの車です。 こういう車を見ると何だか気分がほっとします。 走りを追求しなくても良いから、こういう個性あふれた車が走る時代がまた来ないものでしょうか。 それでは、皆様よろしゅうに。 平成24年6月2日(土) 謎の不良中年 柚木惇 記す 電車の中でのささやかな喜び 電車の中でのささやかな喜びを書く。 先週の地下鉄銀座線乗車時のことである。 親子連れが乗車してきたのである。二人はおいらの向かい側に座った。 目をむいた。そっくりである。父親と娘である。 二人ともポッチャリ系で、目の垂れ目具合が同じである。 最初は驚いたが、だんだん微笑ましくなってきた。で、最後はほのぼのとしてきた。 さらに、先日も東横線で母親と娘がおいらの斜め前の席に二人で座った。この母娘も瓜二つで、特に目元がそっくりである。 まことに人間とは遺伝子を乗せたビークルだと納得するが(竹内久美子)、えぇい、そんなことはどうでも良い。 微笑ましいのである。おいらは思わず心の中で笑っていた。 こういう光景は好きじゃのぅ。 大阪の地下鉄 大阪の地下鉄に乗車した。意外感があったので、書きこむ。 上の写真は御堂筋線の淀屋橋駅。天井が広いのである。この感じは嬉しい。 御堂筋線の歴史は古いはずだが(調べてみると、昭和8年開業)、昭和恐慌の真っ最中にこのように広く地下鉄を掘ったとは驚きである(地下鉄が将来増えるのを見越して、大きな穴に設計したそうである)。 日本最古の地下鉄である銀座線などは穴が小さいので、今でも銀座線の車両は小振りである。 狭い地下鉄だと、ロンドンのチューブを思い出す。彼の地の地下鉄は小さくて狭い車両だから、座席に座ると向かいの人との距離が近く圧迫感が迫って来る。 だから、米国西海岸ロスの地下鉄など歴史の浅い地下鉄のように広い構内だと嬉しくなってしまうのである。横浜のみなとみらい線の地下鉄構内も最近出来たばかりだから、だだっ広くて壮観である。心地が良い。 下の写真は、これも大阪の心斎橋駅。 ここも地下王国である。どうやら小さい頃読んだSFの世界(地底人王国)を想像するから心が引きつけられるのかも。 |